2007年4月17日 (火)

リトリート。

リトリートを終えて。

今回参加した人達は私が普段から説くみこころの意味が
深く理解出来たのではないだろうか?

神の計画はこれほどまでに完璧で、
かつ、ドラマチックなのである。

こんな完璧な計画を誰が思いつき得るだろうか?
こんな完璧なドラマを誰が創造し得るだろうか?

神のみである。

神故に、全てはこれほどまでに美しく、
完璧なので在る。

偶然は無い。

それをみんなが経験出来たのではないだろうか?

全ては神のみこころである。

人生とは神の創造したる見事なドラマなのである。

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2007年4月 4日 (水)

目標達成。

では、目標達成の為に必要な事は何であろうか?

それは自分ではなく、
神に、自分の中心を置く事である。

自分の意識を自分ではなく
神に置くのである。

神が自分の中心になる事。

それが最も大切な事である。

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悟り。

悟りとは人生最大の目標である。

しかし、多くの人間は悟りたいと思った瞬間から
悟りたいと言う欲求にとりつかれてしまう。

悟りとは欲を超えた所にあり
欲を通しては実現されない。
それどころか、悟りにとって悟りたいと言う欲求はかえって障害になるのだ。

故に、悟りという目標を実現する為に必要な事は
悟りたいという欲求を捨てる事である。

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2006年4月23日 (日)

リトリート。

先週末、毎年恒例のリトリートを行った。

今回のテーマは心の強化であり、瞑想などの実践にある程度の重きを置きつつも、方法論に陥る事無く、そこにある生き生きとした実在の実感を得られるように心を配ってみた。なぜ、心を配ってみたのか。と言えば、この世界は常に変化し続け、神は瞬間瞬間に違った形で私たちにその存在を明確に示すからである。方法論に陥ると、その明確さを見えなくさせてしまう。
大切なのは方法ではく、今ここに存在しているこの実在を経験する事なのだ。

リトリートの最中、
あらゆる瞬間にこの力は存在し、参加した全員を啓発し続けた。
それは愛であり、全てを変化させる力である。
愛が無ければ祝福は無い。
この祝福は人類へのすばらしいギフトである。

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2006年4月 8日 (土)

それはやってくる。

私たち人間は肉体ではない。
私たち人間は意識体である。
肉体が無いというわけではない。これは存在している。
しかし、意識は肉体を越えてさらに存在している。
この世界は多くの意識体の絡み合いである。

しかし、さらに大きな宇宙と言う意識体。神という大きな意識体が存在している。
それは私たち一切を包括して存在している。
これは概念ではない。
そのように考えると言うことではない。
それは確かなことなのだ。
それは存在している。
そして、その恩寵によってそれを必要としている者の所にそれはやってくる。
そしてそれを経験すれば全ての問題は吹っ飛ぶ。
何故ならばその存在こそが全てであるということがわかるからだ。
そこにこそ私たちの求める答えが存在している。

今日、大勢の人達がごった返しているファミリーレストランで、その力は厳然と存在していた。
こんなにも雑然としている所でその力はやってきてそこに留まっていた。
多くの人達の騒々しい会話はその存在の静寂さの中で完全に消えていた。
そんな中でただ静けさと平安と、そして愛が存在していた。
私は涙が止めどなく流れるのを抑えることが出来なかった。
神の完璧なるみこころと、愛に感謝していた。
それは静寂なる環境の中に存在しているのではない。全ての場所に存在している。
それはどんな場所であろうと関係なく存在し、圧倒的なる力と愛を持って存在している。
全ては完璧である。
全ては最高に美しい。

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2006年4月 2日 (日)

真の経験。

その場所には素晴らしい力がみなぎっていた。
その力は瞑想とともに在り、そこに居る全ての人がこの力を体験していた。

覚醒は修行の結果としてあるものではない。
しかし、修行をしない心は弱く、いつでもマーヤの餌食となってしまう。
自分自身の心を支配し、コントロール出来るようになることは、覚醒をさらに輝かしいものとすることが出来る。
だが、修行をしなければいくら擬似的に覚醒を得た所でまた普段の自分に戻ってしまう。
自分の要求に振り回されるのでなく、自分が今、すべきことをしっかりするというのが重要なことなのである。

真の力とは経験とともにあるのだ。
決して本や講義の中にあるのではない。

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2006年3月24日 (金)

瞑想と社会

この現代の社会の中にあって本当の意味での瞑想をする事は難しい。
ストレスの緩和や、トラウマの解消など瞑想が解決してくれる事は多々ある。
しかし、自己の完全なる変容の為に瞑想を行おうとするならば、この社会はあまりにも悪である。
この悪は純粋なる修行者の心をいとも簡単に奈落の底へと引きずり込んでしまう。
狡猾さ、欺瞞、自己本位は瞑想に対する障害でしかない。
修行者はこれらとの対立の中で常に正しい心を持って自己に向かい合わなければならない。
本来ならば隠遁するのが好ましい。しかし、それが出来ない場合は常に正しく自分の心を観察し、
悪しき方向に自分が向かっていないかを確認しながら進んでいかなければならない。

瞑想は私達を解放してくれる。見る者と見られる者。主観と客観という相対の地平を越えた所でただ在るという状態に留まる事が出来るならば、私達は真の自由を手に入れる事が出来る。
それは教えられるものではなく、それぞれが自分自身で到達し得る境地である。

そこには本当の平安と祝福と、喜びが存在している。
私達が目指すべき真のゴールである。

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2006年3月18日 (土)

愛の力。

夜の集まりの間、その力は厳然と存在していた。
それは愛の力である。
それは愛として今日は存在していた。
それは教える事も無く、ただ、喜びとともにそこにあった。

私達の心に潜む負の力は
取り除こうとして取り除けるものではない。
負というものを取り除くのではなく、正の力で満たす事が大切なのである。
チベットなどの本尊の瞑想はその為に存在している。
菩薩とは彼方にあるものではなく、自分自身の完成された姿である。
その完成された姿に自分自身を映していく事で、私達は私達があるべき本来の姿に
立ち返っていく事が出来るのである。
負の力と戦う事ではない。
自分が正となる事で負は存在し得なくなるのである。

この完璧なる愛の力は私達を祝福し、
その場所にあり続けた。
そして、今こうしてこれを書いている時もそれは変わらず
あり続けている。
こんなにも完璧に存在しているのに、ほとんどの人間は
この事を知らない・・・。

まあ、それもみこころか。

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2006年3月 4日 (土)

許すこころ。

今日は数名の者達との夜の集いがあった。

人間は、許す心を持つ事と、懺悔を行う事は必要なことである。
そもそも神というものは愛そのものに他ならない。
神が愛であるならば、それと向かい合う私達人間も愛にならなければならない。
しかし、私達は自責の念。罪悪感。自己否定などの否定的な想念によって愛になる事が出来ない心の状態におかれている。神と私達を隔てているものは、これら人間の否定感と無知である。
故に神を求めるものは過去、現在、そして未来におけるこれら一切の否定的な想いを一掃しなければならない。
もし、他人に苦しめられていたり、苦しめられた事があったら、その他者を許す事である。恨みの想いを持っている事は、他ならぬ自己の破滅を招くだけである。そして他者を傷つけてしまった時はその事を深く反省し、懺悔をする事である。懺悔をして、その後新たに生まれ変わるのである。そうして、自分の中の否定的な想念をひとつずつ取り除き、自らを愛のエネルギーで満たしていく事である。
そして、あなたが愛そのものになった時、あなたは神とひとつになる事が出来る。
それこそが愛の道である。

私が話している間、この愛の力はそこに留まり、私達を満たしていた。
それは愛を持つものとともに、常に明らかにされるのである。
それは無限なるものからの祝福であり、恩寵である。

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それぞれの道。

今日の最初の相談者は、自分がひたすら唯一なるものに向かう事が出来ない。つい、マーヤ的なもの。本質的なものでないものに対して興味を持ってしまうという自分にあきれ果てていた。

ほとんどの人間にいきなり本質に向かう事は不可能な事である。
全ては段階である。その段階は人によって様々であるが、それぞれのステップがそれぞれにある。
最終的に至らなければならない所は皆同じである。
しかし、プロセスは様々なのである。
これだけが唯一の方法で在る。などというものは存在しないのである。
あなたにはあなたの。
私には私の。それぞれが歩むべき道が用意されているのである。

このセッションの間もその祝福は在り続けた。
それは部屋いっぱいに広がり、辺り一帯を全て満たしていた。
これが無くなる事は無い。
この人類への祝福は未来永劫在り続けるものなのだ。

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