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2006年2月24日 (金)

自分と共にある答え。

今日私のもとを訪れた人は、早く覚醒したい。早く答えに到達したい。その為に何か良い方法が在るか?と尋ねてきた。

そもそも、答えは自分が存在する事の中にすでに隠されている。
それが到達されるものであり、今、無いものであると思っている限り、その答えは明らかにはならない。なぜならば、無いものならば得なければならないからだ。そして、それが得られるものであるならば、そんなものには価値はない。唯一価値のあるものとは永遠不滅なるものであり、永遠不滅なるものならば今ここになければ永遠不滅とは言えないからだ。ゆえに真理とは得るもの。到達されるものではなく、今すでにここに在るものなのだ。
ゆえに到達しようとする限り、それは失敗に終わる。なぜならば到達するべきものなどもともと存在していないからである。
答えはすでに自分と共に在る。
私達が在る事と共に存在している。

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2006年2月23日 (木)

病気に負けないこころ。

今日は、すでに7年間続いている瞑想の会に出かけていった。
私は以前、日比谷のタニ・クリニックで癌など、重い病気の人たちの為の瞑想の指導を2年ほどしていたことがある。その後も、有志の人達が集まって、この瞑想の会が毎月行われているのである。
この7年の間にすばらしい進歩があり、ここにいる皆は病気ということを越え、真の幸せの状態に近づきつつある。皆は病気という肉体的なレベルを超え、意識の本質で生きようとしている。

私が話している間、それは力強く、私を通してみんなに働きかけていた。
病気に向かう心。
未来。人生。
それを通して、みんなの心に花が咲いた。
祝福と言う美しい恩寵がそこにはあった。

私達人類は困難な時を迎えている。
しかし、近い未来において、
もし多くの人達が、この祝福を受け入れることが出来たなら、
私達は幸福になることが出来るであろう。

少なくとも、私はそうあることを信じている。

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2006年2月18日 (土)

講話会

寒い日であった。
青空はどこまでも澄み渡り、私の心を大空へと吸い込んでいった。
電車で、講話会の会場に向かう時、車窓から見えるその空の中には静寂と、広がりがあった。
空は私のこころと一体となり、広がり続けていた。

講話会の会場でも、その力は私とともにあった。
あまりの力強さに酩酊し、ろれつが回らなくなっていた。
聖典の解説をしている時、その力は私の内側から聖典の意味を皆に理解させようと、力強く脈打っていた。

聖典の中には真理が語られていた。
それは今も昔も変わらぬものなのだ。
これこそが人類の英知である。

変わらぬものこそが真理なのだ。

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2006年2月17日 (金)

それは愛である。

今日夜、数人の人達に話している時、圧倒的なる力がその場所を支配していた。
何人かの人はその力に気づいていた。
それは私が自分の過去の話や、人類の未来について語っている時、さらに強く渦巻いていた。

私達人間は、この力と共にいつでも在るのに、そのことに気づいてはいない。ただ、ワカッテイナイだけなのだ。これはいつでも在る。しかし、そのことに気づいている人は少ない。それは、その人達の準備が整った時、知ることを許された時、自らを示す。
それは厳然と存在しているのだ。
ただ必要なことはワカル。ということだけなのだ。

そして、その力は圧倒的なる愛というものを顕現させていた。
そこには愛があった。
降り注ぐ、言葉では語り尽くすことの出来ない愛である。
私達は泣いた。
そこには人類への計り知れない愛が存在していた。
これは考えることではない。
経験することである。

それはそこにあり、それこそが全てであった。
なんという祝福だろうか。
感謝しかない。

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沈黙の喜び

私はこの場所が好きである。
ここにはとてつもない静けさと力が存在している。
遠くで話している人達の会話が聞こえてくるほどである。はりつめたような静けさ。このような場所はそうそうあるものではない。
その場所で眼を閉じ、静かに耳を澄ます。
沈黙の音を聞く。
しばらく沈黙の中をただよっていると、体の底から、静かに、しかし力強く、喜びのエネルギーが全身を貫き、頭を支配していく。
この力は静かでありながらもとても力強い。
わが内なる沈黙と、この場所の静寂がひとつに溶け合っていく。
全てが歓喜によって満たされていく。
この完璧なる沈黙の中で、
私は永遠なるものとひとつになっていく。
そこにはただひとつのものだけが存在している。
もし人類が皆、この意識の状態に到達することが出来たなら、
全ての苦しみや不幸は存在しなくなるであろう。
何故ならば、ここにおいては分離が存在しないからだ。
全てはただひとつ。
この絶対的なる意識。
永遠なる意識。
これこそが私達を解放してくれるただひとつの道なのだ。

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2006年2月16日 (木)

不死の錬金術

私達の誰もが最後には死んでいく。
果たしてこの人生には死という出口しか無いのだろうか?
否、もうひとつ存在している。不死という出口がもうひとつだけ存在している。
しかし、不死に到達することなど出来るのだろうか?
不死とは、死なないという意味であるが、文字通り肉体が死なないということではない。例え不死に到達した人間といえども、最終的には肉体の死を迎えることになる。しかし、不死に到達しているひとは肉体の死とともに死ぬことは無い。肉体の死とともに死んでいくのは不死に未だ到達していない人間だけである。不死とは、本来死ぬことなどない意識が目覚めることなのだ。この意識が目覚めることによって、人は不死となることが出来る。たとえ肉体が滅んでも、その意識は永遠に滅びることは無いのだ。
たとえ、未だ不死に到達していなくても、到達することが出来るのだ。ということを知っているのと、知らないのとでは、人生は、大きく変わる。
出口の無い真っ暗な部屋の中でさまよっているのと、非常出口の緑色の光をめざしてまっすぐ進んでいくのと、どちらが救いがあるだろうか?
人は必ず死を迎える。
しかし、人間の本質とは決して死なないものなのだ。
この死ぬことなき意識の境地に到達すること。
それこそが、私達が生まれてきた時から与えられた宿命なのだ。
まさに、私達には、死が訪れるのが早いか、不死に到達するのが早いか、日々競争しているのだ。故に、その為の努力をしないならば、私達は間違いなく、死を選択するしか道は無いのだ。不死というもうひとつの選択があるにもかかわらず・・・。
もし、ひとが不死の境地に到達することが出来たなら、
一切の現実という幻は消え去り、
ただひとつの、真に存在する真理を知ることが出来るだろう。

そして私達は、不死の翼を手にし、
永遠なるものへと飛翔していくのだ。
もう決して滅びることの無い世界へ。
永遠なる世界へ。

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癒し

現代の日本人は癒しを必要としている。
信仰のある国の人々は神に祈る瞬間に心が広がる経験をしている。
その瞬間に生かされている事の実感と、溢れる愛と平安を経験するのだ。
しかし、この国の人間はそうした自らの魂と向き合う時間をほとんど持つ事が無い。
癒されるという経験が無いのだ。
真の癒しとは魂が経験する事である。
肉体や五感、想念が癒されるという事が癒しなのではない。
癒しとは、一切の想いを超え、自らを超越し、
自らが自らの魂の内に埋没していく事なのだ。
今の日本人にはストレスしか存在していない。
そして、癒しとはいえないような癒しが癒しだと勘違いされている。
それもそのはずで、日本人は真の癒しを忘れ去れてしまっているからだ。
どうにかしなければこの国の人々の精神は破綻していく事だろう。
私達は魂の内側からの癒しを求めている。
今ならまだ間に合う。

早朝に。または人々が寝静まった静かな夜に、
一人静かに耳を澄ましてみよう。
難しい方法は必要ない。
ただ、じっと、目を閉じ、耳を澄ます。
自分の内側に、目を向け、
自分の魂の声を聞く。
そうすると、静寂の中から、さらなる静けさが広がって来る。
そして、その静けさが自分を支配していく。
それが魂の声である。
沈黙している事。
静寂である事。
これこそが私達の魂の声であり、
そこに真の癒しが存在している。
魂の本質とは、
在る事であり、智恵であり,そして喜びである事なのである。

静寂の中に、真の喜びと平安が存在している。
これは誰にも犯す事の出来ない自分だけの真の聖域。
その聖域にこそ、真の癒しが存在している。

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自分とは誰か?

誰もが必ずぶつかる問いである、
自分とは誰か?という問い。
しかし、ほとんどの人はそんなものには答えが無いと諦めてしまう。
それもそのはずである。
何故ならば、この国には自分が誰なのかという事を知っている人はほとんどいないからである。
私は子供の頃からこの答えを見いだすべく人生の全ての時間を費やしてきた。そして、その答えを見つける事が出来た。感謝すべきは私がインドやチベットで10年以上にわたって修行する事が出来た事である。私はその国々で、多くの自分とは誰かという事を知っている人達と交わってきた。答えを持っている人達との交流は、そこに答えが在る事を私に証明してくれた。だからこそがんばってくる事が出来たのだ。もし、私がただこの国にいたならば、きっと諦めていた事だろう。
もし、自分が誰なのかという事に対して答えが無いと思いこんでしまっている人がいるなら、
私は諦めないで欲しいと思っている。
何故ならば、あなたはそれに対しての努力を何もしていないからだ。
自分が誰なのかという問いは人生究極の問いである。その問いに数ヶ月や数年で答えが出るわけが無い。また、それに対しての代償も支払っていないなら、なおさらのことである。
ただ悩んでいるだけでは、また、ただ考えているだけならそこには答えは無い。
エゴこそが出口の無いパラドックスであり、それは思考である。それを沈める事の訓練は必須である。修業時代の私は毎日数時間。多くて10時間以上もの時間を瞑想、座禅に費やしてきたし,チベットではいつ終わるとも知れない五体投地の修行を一日中やったものである。
そして、その代償として、私は自分が誰なのかという答えを得る事が出来た。
実行してみれば、解決の道はどの道に於いても存在している。
だから諦めない事である。

だが、自分が誰なのかという問いに対する答えは必ずしも修行の結果ではない。何故ならば、これは純粋に恩寵だからである。しかし、だからといって、だらだらと待っているだけでは答えはやって来ない。実際の真剣なる取り組みだけが要求される。
真理という答えは、コンビニやスーパーマーケットで手に入れる事は出来ないのだから。
私のチベットの師の一人は、ある時、アメリカの大富豪から教えを売ってくれと頼まれた事があった。その時彼が持参したお金はトランクケース2個分だったといわれている。しかし、それに対する師の返答は「金は要らない。もし私から教えてもらいたければ、今からする私の糞を食え」と言った。まさに糞喰らえ!本当に糞を食えと言う意味ではない。覚悟を見せろ。という意味なのである。支払うべき真の代償を払えるかどうか試したわけである。
時として、真理というものを体得している人は常人には理解出来ない事をしたり,言ったりするものである。しかし、師達が求めているのはただひたすら、真剣であるか。どうかなのである。
そして、真剣にその答えを求めているものには、その答えは向うからやって来る。
その答えは私達に見つけられるのを待ち続けている。
たとえどれだけ時間がかかろうとも・・・。
それは辛抱強く私達がそこに到達するその日を待ち続けているのだ。

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意識の広がり

今日二人目の相談者とのセッション中のことである。
この人物は数年に渡って、私のもとを訪れている。自分の中の否定的想念にさいなまれ、日常的には安定した日々を送りながらも,毎日悩み続けている。しかし、過去に私とのセッションの中で、あの絶対的なる祝福にふれる経験をし、それからというものは人生が随分と変わったようである。ところがここのところ、スランプに陥り,出口を見つけられずに苦しんでいた。
そして、今日という日を迎えた。
始めの数十分というものはそのスランプの出口を見つけようと、私も一生懸命だった。
ところが、ある瞬間それは突然、何の前触れも無くやってきた。
それは部屋全体を満たし,一瞬のうちにその相談者の意識を転換させた。
そこには先ほどまでいた弱々しく悩める人間ではなく、
人生の答えをしっかりと見つめる意識ある人間へと変わっていた。
そしてその力はしばらくの間この場所に留まり、
その後いつも通りの静けさへと変わっていった。
それが無くなったわけではなく、動から静に変わったのである。
相談者は元通りの意識の明晰さとともに喜びとともに私のもとを去っていった。

答えは存在している。
しかし、私達はその答えを拒絶している。
答えを拒絶する限り、その答えの恩寵に浴することは出来ない。
答えは、答えが在るということを受け入れることである。
そして、それを受け入れた時に、
答えは力をともなって私達の面前に現れるのである。
私達に必要なことは受け入れることである。
その為には受け入れることを拒絶するエゴをなだめなければならない。
そうしてエゴがおとなしくなり、受け入れることが出来れば、
それは確実にはっきりとした答えとして、
私達に自分自身を示してくれるのである。

答えの、その答えたる答えが
夕方のしじまの中を無限に広がっている。
昨日も、今日もそして明日も、
過去から未来にかけて、ずっと繰り返されていく
この夕方の光景。
一度として同じ光景は存在しない。
しかし、そこにはずっと同じ。
ただひとつの変わらぬ答えが存在している。

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未来

今日私のもとに相談に訪れた人は自分自身の人生の未来への不安を訴えていた。
仕事のこと。そして人生。
多くの人達が今同じような悩みを抱えている。
この今という時代に自分自身を完全に見失ってしまっているのだ。
現代人は生きる目的。そして希望や夢を失っている。
答えは自分が存在していることの中にあるのに。
目の前に在るのにもかかわらず。
私は今この目の前に在る答えをひたすら見ていた。
仕事は大切である。しかし、仕事をしているのはその本人である。
その本人が自分というものの存在を知らなければ、何をしても雲をつかむようなものである。
生きているのは自分である。
人生を歩んでいるのは自分自身である。
その生きている主体である自分を知らなければ、
人生の客観である仕事や恋愛は意味を失う。
知らなければならないのは他でもなく、
自分自身なのだ。

相談者が帰った後も、私の部屋のには変わらぬ静けさがあった。
この静けさはこれからも変わること無く存在し続けるだろう。
この静けさの中に真の平安が在る。
そしてこの静けさは天地開闢のときから未来永劫に続いていく、
真のありようなのだ。
この平安のうちに私は我が魂を沈め、
完全なる喜びのうちに浸るのだ。

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2006年2月12日 (日)

セラピーライフ

私の仕事はセラピストです。
今までに多くの人達の悩みを毎日のように聞き続けてきました。そんな毎日の中で思うことをつらつらと綴ってみたいと思います。

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