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2006年3月24日 (金)

瞑想と社会

この現代の社会の中にあって本当の意味での瞑想をする事は難しい。
ストレスの緩和や、トラウマの解消など瞑想が解決してくれる事は多々ある。
しかし、自己の完全なる変容の為に瞑想を行おうとするならば、この社会はあまりにも悪である。
この悪は純粋なる修行者の心をいとも簡単に奈落の底へと引きずり込んでしまう。
狡猾さ、欺瞞、自己本位は瞑想に対する障害でしかない。
修行者はこれらとの対立の中で常に正しい心を持って自己に向かい合わなければならない。
本来ならば隠遁するのが好ましい。しかし、それが出来ない場合は常に正しく自分の心を観察し、
悪しき方向に自分が向かっていないかを確認しながら進んでいかなければならない。

瞑想は私達を解放してくれる。見る者と見られる者。主観と客観という相対の地平を越えた所でただ在るという状態に留まる事が出来るならば、私達は真の自由を手に入れる事が出来る。
それは教えられるものではなく、それぞれが自分自身で到達し得る境地である。

そこには本当の平安と祝福と、喜びが存在している。
私達が目指すべき真のゴールである。

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2006年3月18日 (土)

愛の力。

夜の集まりの間、その力は厳然と存在していた。
それは愛の力である。
それは愛として今日は存在していた。
それは教える事も無く、ただ、喜びとともにそこにあった。

私達の心に潜む負の力は
取り除こうとして取り除けるものではない。
負というものを取り除くのではなく、正の力で満たす事が大切なのである。
チベットなどの本尊の瞑想はその為に存在している。
菩薩とは彼方にあるものではなく、自分自身の完成された姿である。
その完成された姿に自分自身を映していく事で、私達は私達があるべき本来の姿に
立ち返っていく事が出来るのである。
負の力と戦う事ではない。
自分が正となる事で負は存在し得なくなるのである。

この完璧なる愛の力は私達を祝福し、
その場所にあり続けた。
そして、今こうしてこれを書いている時もそれは変わらず
あり続けている。
こんなにも完璧に存在しているのに、ほとんどの人間は
この事を知らない・・・。

まあ、それもみこころか。

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2006年3月 4日 (土)

許すこころ。

今日は数名の者達との夜の集いがあった。

人間は、許す心を持つ事と、懺悔を行う事は必要なことである。
そもそも神というものは愛そのものに他ならない。
神が愛であるならば、それと向かい合う私達人間も愛にならなければならない。
しかし、私達は自責の念。罪悪感。自己否定などの否定的な想念によって愛になる事が出来ない心の状態におかれている。神と私達を隔てているものは、これら人間の否定感と無知である。
故に神を求めるものは過去、現在、そして未来におけるこれら一切の否定的な想いを一掃しなければならない。
もし、他人に苦しめられていたり、苦しめられた事があったら、その他者を許す事である。恨みの想いを持っている事は、他ならぬ自己の破滅を招くだけである。そして他者を傷つけてしまった時はその事を深く反省し、懺悔をする事である。懺悔をして、その後新たに生まれ変わるのである。そうして、自分の中の否定的な想念をひとつずつ取り除き、自らを愛のエネルギーで満たしていく事である。
そして、あなたが愛そのものになった時、あなたは神とひとつになる事が出来る。
それこそが愛の道である。

私が話している間、この愛の力はそこに留まり、私達を満たしていた。
それは愛を持つものとともに、常に明らかにされるのである。
それは無限なるものからの祝福であり、恩寵である。

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それぞれの道。

今日の最初の相談者は、自分がひたすら唯一なるものに向かう事が出来ない。つい、マーヤ的なもの。本質的なものでないものに対して興味を持ってしまうという自分にあきれ果てていた。

ほとんどの人間にいきなり本質に向かう事は不可能な事である。
全ては段階である。その段階は人によって様々であるが、それぞれのステップがそれぞれにある。
最終的に至らなければならない所は皆同じである。
しかし、プロセスは様々なのである。
これだけが唯一の方法で在る。などというものは存在しないのである。
あなたにはあなたの。
私には私の。それぞれが歩むべき道が用意されているのである。

このセッションの間もその祝福は在り続けた。
それは部屋いっぱいに広がり、辺り一帯を全て満たしていた。
これが無くなる事は無い。
この人類への祝福は未来永劫在り続けるものなのだ。

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2006年3月 2日 (木)

恩寵。

昨日と一昨日、私は一日中山を見ながらお気に入りの椅子に座って過ごしていた。
風が強く、雨模様の肌寒い二日間であったが、天気や気温に影響される事無く私は穏やかで力に満ちていた。

その力は二日間に渡って、特に強烈に私とともに在り続けた。
それは愛であった。無限に広がる愛そのものであった。
私達は愛の中に在り、その尽きる事無い無限の供給源から
愛を受け取っている。
マーヤがあり、認識が狂っていると、その事が理解されなくなってしまう。
この愛は全ての人に開かれ、全ての人に恩寵として降り注いでいるにも
関わらず・・・。
愛は語れるものではない。
愛を表現することは出来ない。
愛は、愛そのものになる事によって
理解されるものなのだ。
故に私達に出来る事は愛する事に努める事なのだ。
あらゆるものを愛する事が出来るようになる時、私達は愛に溢れるようになって来る。
そして、愛を理解し始めるのである。
しかし、これには恩寵が必要である。自らの力や努力だけでここに到達する事は出来ない。
だから愛する事。愛する事しか無いのだ。
愛する事で恩寵を得る事が出来る。
そうすれば愛を理解し始める事が出来る。

その力は私の一切を満たし、新たなる理解を与えてくれた。
私はこの超越した愛とともにあった。
そしてこれからも変わること無く、
この力は在り続ける。

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