2006年4月23日 (日)

リトリート。

先週末、毎年恒例のリトリートを行った。

今回のテーマは心の強化であり、瞑想などの実践にある程度の重きを置きつつも、方法論に陥る事無く、そこにある生き生きとした実在の実感を得られるように心を配ってみた。なぜ、心を配ってみたのか。と言えば、この世界は常に変化し続け、神は瞬間瞬間に違った形で私たちにその存在を明確に示すからである。方法論に陥ると、その明確さを見えなくさせてしまう。
大切なのは方法ではく、今ここに存在しているこの実在を経験する事なのだ。

リトリートの最中、
あらゆる瞬間にこの力は存在し、参加した全員を啓発し続けた。
それは愛であり、全てを変化させる力である。
愛が無ければ祝福は無い。
この祝福は人類へのすばらしいギフトである。

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2006年4月 8日 (土)

それはやってくる。

私たち人間は肉体ではない。
私たち人間は意識体である。
肉体が無いというわけではない。これは存在している。
しかし、意識は肉体を越えてさらに存在している。
この世界は多くの意識体の絡み合いである。

しかし、さらに大きな宇宙と言う意識体。神という大きな意識体が存在している。
それは私たち一切を包括して存在している。
これは概念ではない。
そのように考えると言うことではない。
それは確かなことなのだ。
それは存在している。
そして、その恩寵によってそれを必要としている者の所にそれはやってくる。
そしてそれを経験すれば全ての問題は吹っ飛ぶ。
何故ならばその存在こそが全てであるということがわかるからだ。
そこにこそ私たちの求める答えが存在している。

今日、大勢の人達がごった返しているファミリーレストランで、その力は厳然と存在していた。
こんなにも雑然としている所でその力はやってきてそこに留まっていた。
多くの人達の騒々しい会話はその存在の静寂さの中で完全に消えていた。
そんな中でただ静けさと平安と、そして愛が存在していた。
私は涙が止めどなく流れるのを抑えることが出来なかった。
神の完璧なるみこころと、愛に感謝していた。
それは静寂なる環境の中に存在しているのではない。全ての場所に存在している。
それはどんな場所であろうと関係なく存在し、圧倒的なる力と愛を持って存在している。
全ては完璧である。
全ては最高に美しい。

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2006年4月 2日 (日)

真の経験。

その場所には素晴らしい力がみなぎっていた。
その力は瞑想とともに在り、そこに居る全ての人がこの力を体験していた。

覚醒は修行の結果としてあるものではない。
しかし、修行をしない心は弱く、いつでもマーヤの餌食となってしまう。
自分自身の心を支配し、コントロール出来るようになることは、覚醒をさらに輝かしいものとすることが出来る。
だが、修行をしなければいくら擬似的に覚醒を得た所でまた普段の自分に戻ってしまう。
自分の要求に振り回されるのでなく、自分が今、すべきことをしっかりするというのが重要なことなのである。

真の力とは経験とともにあるのだ。
決して本や講義の中にあるのではない。

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2006年3月24日 (金)

瞑想と社会

この現代の社会の中にあって本当の意味での瞑想をする事は難しい。
ストレスの緩和や、トラウマの解消など瞑想が解決してくれる事は多々ある。
しかし、自己の完全なる変容の為に瞑想を行おうとするならば、この社会はあまりにも悪である。
この悪は純粋なる修行者の心をいとも簡単に奈落の底へと引きずり込んでしまう。
狡猾さ、欺瞞、自己本位は瞑想に対する障害でしかない。
修行者はこれらとの対立の中で常に正しい心を持って自己に向かい合わなければならない。
本来ならば隠遁するのが好ましい。しかし、それが出来ない場合は常に正しく自分の心を観察し、
悪しき方向に自分が向かっていないかを確認しながら進んでいかなければならない。

瞑想は私達を解放してくれる。見る者と見られる者。主観と客観という相対の地平を越えた所でただ在るという状態に留まる事が出来るならば、私達は真の自由を手に入れる事が出来る。
それは教えられるものではなく、それぞれが自分自身で到達し得る境地である。

そこには本当の平安と祝福と、喜びが存在している。
私達が目指すべき真のゴールである。

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2006年3月18日 (土)

愛の力。

夜の集まりの間、その力は厳然と存在していた。
それは愛の力である。
それは愛として今日は存在していた。
それは教える事も無く、ただ、喜びとともにそこにあった。

私達の心に潜む負の力は
取り除こうとして取り除けるものではない。
負というものを取り除くのではなく、正の力で満たす事が大切なのである。
チベットなどの本尊の瞑想はその為に存在している。
菩薩とは彼方にあるものではなく、自分自身の完成された姿である。
その完成された姿に自分自身を映していく事で、私達は私達があるべき本来の姿に
立ち返っていく事が出来るのである。
負の力と戦う事ではない。
自分が正となる事で負は存在し得なくなるのである。

この完璧なる愛の力は私達を祝福し、
その場所にあり続けた。
そして、今こうしてこれを書いている時もそれは変わらず
あり続けている。
こんなにも完璧に存在しているのに、ほとんどの人間は
この事を知らない・・・。

まあ、それもみこころか。

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2006年3月 4日 (土)

許すこころ。

今日は数名の者達との夜の集いがあった。

人間は、許す心を持つ事と、懺悔を行う事は必要なことである。
そもそも神というものは愛そのものに他ならない。
神が愛であるならば、それと向かい合う私達人間も愛にならなければならない。
しかし、私達は自責の念。罪悪感。自己否定などの否定的な想念によって愛になる事が出来ない心の状態におかれている。神と私達を隔てているものは、これら人間の否定感と無知である。
故に神を求めるものは過去、現在、そして未来におけるこれら一切の否定的な想いを一掃しなければならない。
もし、他人に苦しめられていたり、苦しめられた事があったら、その他者を許す事である。恨みの想いを持っている事は、他ならぬ自己の破滅を招くだけである。そして他者を傷つけてしまった時はその事を深く反省し、懺悔をする事である。懺悔をして、その後新たに生まれ変わるのである。そうして、自分の中の否定的な想念をひとつずつ取り除き、自らを愛のエネルギーで満たしていく事である。
そして、あなたが愛そのものになった時、あなたは神とひとつになる事が出来る。
それこそが愛の道である。

私が話している間、この愛の力はそこに留まり、私達を満たしていた。
それは愛を持つものとともに、常に明らかにされるのである。
それは無限なるものからの祝福であり、恩寵である。

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それぞれの道。

今日の最初の相談者は、自分がひたすら唯一なるものに向かう事が出来ない。つい、マーヤ的なもの。本質的なものでないものに対して興味を持ってしまうという自分にあきれ果てていた。

ほとんどの人間にいきなり本質に向かう事は不可能な事である。
全ては段階である。その段階は人によって様々であるが、それぞれのステップがそれぞれにある。
最終的に至らなければならない所は皆同じである。
しかし、プロセスは様々なのである。
これだけが唯一の方法で在る。などというものは存在しないのである。
あなたにはあなたの。
私には私の。それぞれが歩むべき道が用意されているのである。

このセッションの間もその祝福は在り続けた。
それは部屋いっぱいに広がり、辺り一帯を全て満たしていた。
これが無くなる事は無い。
この人類への祝福は未来永劫在り続けるものなのだ。

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2006年2月23日 (木)

病気に負けないこころ。

今日は、すでに7年間続いている瞑想の会に出かけていった。
私は以前、日比谷のタニ・クリニックで癌など、重い病気の人たちの為の瞑想の指導を2年ほどしていたことがある。その後も、有志の人達が集まって、この瞑想の会が毎月行われているのである。
この7年の間にすばらしい進歩があり、ここにいる皆は病気ということを越え、真の幸せの状態に近づきつつある。皆は病気という肉体的なレベルを超え、意識の本質で生きようとしている。

私が話している間、それは力強く、私を通してみんなに働きかけていた。
病気に向かう心。
未来。人生。
それを通して、みんなの心に花が咲いた。
祝福と言う美しい恩寵がそこにはあった。

私達人類は困難な時を迎えている。
しかし、近い未来において、
もし多くの人達が、この祝福を受け入れることが出来たなら、
私達は幸福になることが出来るであろう。

少なくとも、私はそうあることを信じている。

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2006年2月18日 (土)

講話会

寒い日であった。
青空はどこまでも澄み渡り、私の心を大空へと吸い込んでいった。
電車で、講話会の会場に向かう時、車窓から見えるその空の中には静寂と、広がりがあった。
空は私のこころと一体となり、広がり続けていた。

講話会の会場でも、その力は私とともにあった。
あまりの力強さに酩酊し、ろれつが回らなくなっていた。
聖典の解説をしている時、その力は私の内側から聖典の意味を皆に理解させようと、力強く脈打っていた。

聖典の中には真理が語られていた。
それは今も昔も変わらぬものなのだ。
これこそが人類の英知である。

変わらぬものこそが真理なのだ。

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2006年2月17日 (金)

沈黙の喜び

私はこの場所が好きである。
ここにはとてつもない静けさと力が存在している。
遠くで話している人達の会話が聞こえてくるほどである。はりつめたような静けさ。このような場所はそうそうあるものではない。
その場所で眼を閉じ、静かに耳を澄ます。
沈黙の音を聞く。
しばらく沈黙の中をただよっていると、体の底から、静かに、しかし力強く、喜びのエネルギーが全身を貫き、頭を支配していく。
この力は静かでありながらもとても力強い。
わが内なる沈黙と、この場所の静寂がひとつに溶け合っていく。
全てが歓喜によって満たされていく。
この完璧なる沈黙の中で、
私は永遠なるものとひとつになっていく。
そこにはただひとつのものだけが存在している。
もし人類が皆、この意識の状態に到達することが出来たなら、
全ての苦しみや不幸は存在しなくなるであろう。
何故ならば、ここにおいては分離が存在しないからだ。
全てはただひとつ。
この絶対的なる意識。
永遠なる意識。
これこそが私達を解放してくれるただひとつの道なのだ。

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2006年2月16日 (木)

癒し

現代の日本人は癒しを必要としている。
信仰のある国の人々は神に祈る瞬間に心が広がる経験をしている。
その瞬間に生かされている事の実感と、溢れる愛と平安を経験するのだ。
しかし、この国の人間はそうした自らの魂と向き合う時間をほとんど持つ事が無い。
癒されるという経験が無いのだ。
真の癒しとは魂が経験する事である。
肉体や五感、想念が癒されるという事が癒しなのではない。
癒しとは、一切の想いを超え、自らを超越し、
自らが自らの魂の内に埋没していく事なのだ。
今の日本人にはストレスしか存在していない。
そして、癒しとはいえないような癒しが癒しだと勘違いされている。
それもそのはずで、日本人は真の癒しを忘れ去れてしまっているからだ。
どうにかしなければこの国の人々の精神は破綻していく事だろう。
私達は魂の内側からの癒しを求めている。
今ならまだ間に合う。

早朝に。または人々が寝静まった静かな夜に、
一人静かに耳を澄ましてみよう。
難しい方法は必要ない。
ただ、じっと、目を閉じ、耳を澄ます。
自分の内側に、目を向け、
自分の魂の声を聞く。
そうすると、静寂の中から、さらなる静けさが広がって来る。
そして、その静けさが自分を支配していく。
それが魂の声である。
沈黙している事。
静寂である事。
これこそが私達の魂の声であり、
そこに真の癒しが存在している。
魂の本質とは、
在る事であり、智恵であり,そして喜びである事なのである。

静寂の中に、真の喜びと平安が存在している。
これは誰にも犯す事の出来ない自分だけの真の聖域。
その聖域にこそ、真の癒しが存在している。

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自分とは誰か?

誰もが必ずぶつかる問いである、
自分とは誰か?という問い。
しかし、ほとんどの人はそんなものには答えが無いと諦めてしまう。
それもそのはずである。
何故ならば、この国には自分が誰なのかという事を知っている人はほとんどいないからである。
私は子供の頃からこの答えを見いだすべく人生の全ての時間を費やしてきた。そして、その答えを見つける事が出来た。感謝すべきは私がインドやチベットで10年以上にわたって修行する事が出来た事である。私はその国々で、多くの自分とは誰かという事を知っている人達と交わってきた。答えを持っている人達との交流は、そこに答えが在る事を私に証明してくれた。だからこそがんばってくる事が出来たのだ。もし、私がただこの国にいたならば、きっと諦めていた事だろう。
もし、自分が誰なのかという事に対して答えが無いと思いこんでしまっている人がいるなら、
私は諦めないで欲しいと思っている。
何故ならば、あなたはそれに対しての努力を何もしていないからだ。
自分が誰なのかという問いは人生究極の問いである。その問いに数ヶ月や数年で答えが出るわけが無い。また、それに対しての代償も支払っていないなら、なおさらのことである。
ただ悩んでいるだけでは、また、ただ考えているだけならそこには答えは無い。
エゴこそが出口の無いパラドックスであり、それは思考である。それを沈める事の訓練は必須である。修業時代の私は毎日数時間。多くて10時間以上もの時間を瞑想、座禅に費やしてきたし,チベットではいつ終わるとも知れない五体投地の修行を一日中やったものである。
そして、その代償として、私は自分が誰なのかという答えを得る事が出来た。
実行してみれば、解決の道はどの道に於いても存在している。
だから諦めない事である。

だが、自分が誰なのかという問いに対する答えは必ずしも修行の結果ではない。何故ならば、これは純粋に恩寵だからである。しかし、だからといって、だらだらと待っているだけでは答えはやって来ない。実際の真剣なる取り組みだけが要求される。
真理という答えは、コンビニやスーパーマーケットで手に入れる事は出来ないのだから。
私のチベットの師の一人は、ある時、アメリカの大富豪から教えを売ってくれと頼まれた事があった。その時彼が持参したお金はトランクケース2個分だったといわれている。しかし、それに対する師の返答は「金は要らない。もし私から教えてもらいたければ、今からする私の糞を食え」と言った。まさに糞喰らえ!本当に糞を食えと言う意味ではない。覚悟を見せろ。という意味なのである。支払うべき真の代償を払えるかどうか試したわけである。
時として、真理というものを体得している人は常人には理解出来ない事をしたり,言ったりするものである。しかし、師達が求めているのはただひたすら、真剣であるか。どうかなのである。
そして、真剣にその答えを求めているものには、その答えは向うからやって来る。
その答えは私達に見つけられるのを待ち続けている。
たとえどれだけ時間がかかろうとも・・・。
それは辛抱強く私達がそこに到達するその日を待ち続けているのだ。

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意識の広がり

今日二人目の相談者とのセッション中のことである。
この人物は数年に渡って、私のもとを訪れている。自分の中の否定的想念にさいなまれ、日常的には安定した日々を送りながらも,毎日悩み続けている。しかし、過去に私とのセッションの中で、あの絶対的なる祝福にふれる経験をし、それからというものは人生が随分と変わったようである。ところがここのところ、スランプに陥り,出口を見つけられずに苦しんでいた。
そして、今日という日を迎えた。
始めの数十分というものはそのスランプの出口を見つけようと、私も一生懸命だった。
ところが、ある瞬間それは突然、何の前触れも無くやってきた。
それは部屋全体を満たし,一瞬のうちにその相談者の意識を転換させた。
そこには先ほどまでいた弱々しく悩める人間ではなく、
人生の答えをしっかりと見つめる意識ある人間へと変わっていた。
そしてその力はしばらくの間この場所に留まり、
その後いつも通りの静けさへと変わっていった。
それが無くなったわけではなく、動から静に変わったのである。
相談者は元通りの意識の明晰さとともに喜びとともに私のもとを去っていった。

答えは存在している。
しかし、私達はその答えを拒絶している。
答えを拒絶する限り、その答えの恩寵に浴することは出来ない。
答えは、答えが在るということを受け入れることである。
そして、それを受け入れた時に、
答えは力をともなって私達の面前に現れるのである。
私達に必要なことは受け入れることである。
その為には受け入れることを拒絶するエゴをなだめなければならない。
そうしてエゴがおとなしくなり、受け入れることが出来れば、
それは確実にはっきりとした答えとして、
私達に自分自身を示してくれるのである。

答えの、その答えたる答えが
夕方のしじまの中を無限に広がっている。
昨日も、今日もそして明日も、
過去から未来にかけて、ずっと繰り返されていく
この夕方の光景。
一度として同じ光景は存在しない。
しかし、そこにはずっと同じ。
ただひとつの変わらぬ答えが存在している。

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未来

今日私のもとに相談に訪れた人は自分自身の人生の未来への不安を訴えていた。
仕事のこと。そして人生。
多くの人達が今同じような悩みを抱えている。
この今という時代に自分自身を完全に見失ってしまっているのだ。
現代人は生きる目的。そして希望や夢を失っている。
答えは自分が存在していることの中にあるのに。
目の前に在るのにもかかわらず。
私は今この目の前に在る答えをひたすら見ていた。
仕事は大切である。しかし、仕事をしているのはその本人である。
その本人が自分というものの存在を知らなければ、何をしても雲をつかむようなものである。
生きているのは自分である。
人生を歩んでいるのは自分自身である。
その生きている主体である自分を知らなければ、
人生の客観である仕事や恋愛は意味を失う。
知らなければならないのは他でもなく、
自分自身なのだ。

相談者が帰った後も、私の部屋のには変わらぬ静けさがあった。
この静けさはこれからも変わること無く存在し続けるだろう。
この静けさの中に真の平安が在る。
そしてこの静けさは天地開闢のときから未来永劫に続いていく、
真のありようなのだ。
この平安のうちに私は我が魂を沈め、
完全なる喜びのうちに浸るのだ。

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2006年2月12日 (日)

セラピーライフ

私の仕事はセラピストです。
今までに多くの人達の悩みを毎日のように聞き続けてきました。そんな毎日の中で思うことをつらつらと綴ってみたいと思います。

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